風立ちぬの堀越二郎が天才ではない可能性 | 社会や芸能人のニュースと噂を優しく語る

風立ちぬの堀越二郎が天才ではない可能性

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さて、解説です。

僕は風立ちぬが
「わりと普通の人が、薄らぼんやりとした世界で生きていく話」
なのだと解釈しました。

どういうことか?


まず、主人公の二郎ですが、こいつは天才じゃありません。

なぜって、じゃあ逆に考えて見て欲しいのですが、いつ二郎が天才になったのでしょうか?


確かに、二郎は有能な飛行機設計者ですけれど、同期の友達や社長だって同じくらい有能そうです。
お互いに助けあって仕事をしているのであり、別に

「主人公が天才すぎて、周りがついていけなくなる」
みたいな、『ソーシャル・ネットワーク』のザッカーバーグみたいな描かれ方はしていないわけです。

まして、『羊たちの沈黙』のレクターとか、プリズン・ブレイクののような尖り方は一切なく、
頑張って仕事したら、良い成果を出せたという程度の描写です。


これを多くの人が「天才を、より微妙に、繊細に描いたのだ」
という方向から捉えて読み解いているようですが、
そうではなくて、

・単純に「普通の有能な人」と捉えてみる方が自然ではないか、

というのが僕の考えです。


「でも、女性に対して、歪んだ自意識を持ってるんでしょ?}
→うーん、これって、歪んでいるのでしょうか。


確かに

・「女性を目で追っているという」
・「夢の中でも女性を意識している」という点は、

「気付きませんでした! 御見逸れしました!」と思ったのですが、、
でもこれって、「普通」じゃないですか?

「女の子を意識していない」なら異常ですが、「意識している」のは異常とは言えない。
むしろ、あるあるネタですらあるわけです。

つまり、宮崎駿は「青年の当たり前の振る舞い」として、女性を意識する演技を描いたのではないでしょうか。


・おキヌからナオコに乗り換えた、とか
・口からでまかせで口説く、とか
・妹のことを邪険に扱う

というのもそうで、
「普通の男子の、あんまりかっこ良くないふるまい」←これ以上でも以下でもないでしょう。


「でも子供にシベリアをあげるように、人間の感情がないんでしょ?」
→現代人から見ると、これも共感できませんか?


当時の環境的には、確かに二郎は浮いていたかも知れません。
ですが、映画を鑑賞している僕らからみると、思いつきで貧しい人に施しをするというのは、
異常行動ではないんです。

例えば「残飯をプレゼント」なら、狂気じみてますが、あげたのはシベリアです。


「じゃあ、ナオコより飛行機が好きだってのは狂気じゃない?」
→これこそ、仕事第一な「普通の男」ですね。

「私と仕事、どっちが大事なの!?」なんて、世界中で叫ばれているわけで、
そんなに珍しいことではありません。

珍しいような気がするのは、「二郎は天才だ」という先入観によって、
仕事への執着がより病的なもののように感じるからであって、




すなわち、宮崎駿の『風立ちぬ』における堀越二郎とは
「僕らと同じような普通の人」。


それは演出からも推測されます。


どういうことか?

例えば、主人公を身近な存在として描いています。


まず、劇場で見ていて気になったのが、「主人公の目線」がけっこう多いという点。

終始そうなんですが、例えば冒頭の方で二郎がメガネをかけた時、
「メガネを通して世界を見るカメラアングル」
になるんですね。

つまり、二郎の目線=観客の目線になるショットが多いのです。


確かに、「人を写して、その人の見ている風景を写す」というのは、
映画の基礎的なモンタージュ理論の基本ではあるのですが、

「孤高の天才」などを描く時は、あまりやらないはずなんですよね。

だって、主人公が観客とは異質だというふうに描きたいなら、
目線は合わせないほうが効果的な編集になるのです。

このように「普通の人目線」で描かれる
堀越二郎は、普通の世界を薄らぼんやりと生きる人間なのではないでしょうか。


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